登入
祝福の拍手が起こるはずだった、その瞬間だった。
「
その声に、会場は水を打ったように静まり返った。
小春はゆっくりと顔を上げる。
目の前には婚約者である
悠真の手は、その隣に立つ小春の異母妹・
千夏はお腹をかばうように両手を添え、震えている。
「お姉様……ごめんなさい」
小春と千夏の視線が絡む。
千夏の瞳の奥には隠しきれない優越感が滲んでいた。
(この計画があったから、こんな格好をさせたのね)
小春は自分の着ているドレスを見る。
今日のために新しく仕立てると聞いたとき喜んだ自分を愚かに思った。
はしたないほど肌の見えるドレス。
(これでは本当に"悪女"だわ)
会場に集まった医療関係者や財界人たちがざわめき始める。
「やっぱり悪女だったか」
「千夏先生を虐めていた話も本当だったんだ」
「御堂先生も被害者だな」
その囁きに小春は何一つ言い返さなかった。
言い返せないのではない。
言い返してはいけないのだ。
.
「千夏のお腹には俺の子がいる」
小春の沈黙を抵抗だと思ったのか、悠真が迷いなく言い放つ。
「俺は愛する女性と、その子どもを守りたい」
会場から感動のため息が漏れる。
「なんて責任感があるの」
「素敵……」
「悪女より可憐な聖女を選ぶなんて当然よね」
誰も彼もが悠真と千夏を称賛し、小春を蔑む。
その様子を見ながら、小春は静かに微笑んだ。
「分かりました」
小春のその一言に、悠真は眉をひそめる。
「引き留めないのか」
「引き留める理由がありませんもの」
虚無感に飲み込まれそうだ。
悠真との婚約は小春が生まれてすぐ、政略的に結ばれたもの。
恋だったのかは分からない。
それでも、大切な婚約者だった。
小春は千夏を見た。
正確にはその腹部を。
(子ども……)
子どもがいる以上、男と女の恋情の話ではない。
一つの命がかかわる問題だ。
「どうぞ、お幸せに……」
「……なんだ、その態度は」
淡々と返した小春の言葉に、今度は朝比奈家の当主であり、小春の父・朝比奈崇道が怒鳴り声が被さる。
「なぜお前はいつもそう千夏にきつく当たるんだ」
会場中の視線が小春へ突き刺さる。
「千夏に謝りなさい!」
「はい」
小春は何の迷いもなく頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
誰もが驚いた。
傲慢で自分勝手。
いつも家族を困らせていると言われている悪女が、あっさりと謝罪したからだ。
騒めきが戸惑いになる。
その瞬間――。
「お腹が……」
千夏が倒れ込んできて、小春の左腕を強く掴んだ。
幼い頃に負った怪我の後遺症がある場所。
「……っ!」
強い痛みが走り、咄嗟に振った腕に千夏が大きく悲鳴を上げる。
「千夏先生が!」
誰かの声で、会場は一斉に小春を非難しはじめる。
千夏の体は悠真が抱き留めて大事なかったが、力が抜けたように悠真に寄り掛かる。
「君という女はっ!」
悠真の怒りが小春に向く。
自分は何もしていない。
そう仕向けたのは千夏だ。
でも、小春の声を聴いてくれる者はいない。
「……申し訳ありません」
だから謝るしかできなかった。
それでも。
「心がこもっていない!」
「だから悪女なんだ!」
小春を責める声は強くなるばかり。
小春は知っていた。
どんな言葉も、どんな態度も、この人たちには届かない。
でも否定はしない。
悪女。
それが与えられた小春の役目だから。
「お前はもう下がりなさい」
父親の幕引きの言葉に小春は内心ため息を吐いた。
◇◇◇
小春が去った会場は、悠真と千夏の婚約を祝うパーティーになっていた。
悠真は千夏の肩を抱き寄せる。
「千夏、俺と結婚してくれ」
「もちろんよ」
再び拍手が起こる。
そんな会場を、端に立って鋭い眼差しで見つめる男がいた。
経済界でも社交界でも『冷酷』と恐れられる男――篠原樹。
「とんだ茶番だな」
樹はグラスを傍のテーブルに置くとパーティー会場を後にした。
「予定を変更する」樹は柳沢へ視線を向けた。「皆川が動く前に、こちらも準備を進める」「準備……それでは、小春様を皆川様に会わせるのですか?」「いや」樹は静かに首を横へ振る。「まだだ。小春にはこのことをまだ秘密にしておく」「はい、そのほうが宜しいでしょう」柳沢にしては強い肯定。樹が軽く目を瞠ると、柳沢は少し照れ臭そうに笑った。「絶対に小春様の味方になると言えない限り、私は反対です」「そうだな」樹が表情を緩める。「今、小春へ皆川の話をしても混乱させ、不安にさせるだけだ」「はい」樹は窓の外を見る。「味方になるかは分からないが、皆川が小春の敵になることはないだろう」樹はゆっくりと言葉を続ける。「皆川と朝比奈家を離して考えることはできない」それは事実。「ここで皆川が真実を知って朝比奈崇道を更迭させてみろ」想像し、柳沢の眉間にしわが寄る。「朝比奈家の直系は小春様のみ。小春様もしくは、小春様に婿をとらせてその者を院長にしようとするでしょう」「婿……本来なら門倉悠真がそれだったが……」樹はここで気づいた。「皆川は門倉悠真が小春との婚約を破棄したことを知っているのか?」「そういえば……調べます」二人揃って互いの顔に『忘れていた』と書いてあるのを見て苦笑する。「柳沢。皆川隆盛について、もう一度調べ直せ」柳沢は少し意外そうな表情を浮かべた。「改めて、ですか」「皆川が何を知っていて、何を知らないのか。それを整理したい」樹は机を指で突いた。「小春はいま自分のやりたいことを探している最中だ。皆川が勝手に描いた青写真に小春が巻き込まれないようにしないといけない」
朝比奈総合病院の特別病室では、皆川隆盛が窓の外を静かに眺めていた。昏睡状態から目覚めて数日。体力はまだ戻っていないものの、意識ははっきりとしていた。「皆川様、お加減はいかがですか」担当医が病室へ入ってくる。「悪くないよ」隆盛は穏やかに答えた。「歩く練習も始めたい」「もう数日は安静になさってください」担当医は苦笑する。その姿に隆盛も内心苦笑してしまう。安静にしろ。まるで自分の回復を望んでいないかのように。ずっとこればかりだった。「安静にするなら、自宅でもいいのではないか?」モニターに繋がれていた状態ならば諦めた。でも今は点滴すらしておらず、日に二回こうして担当医から問診を受けるだけ。「退院したい」―― お前は医者か?亡き親友ならばそう言っただろう。医者でもないくせにでしゃばるな、と。「それは……」皆川の言葉に担当医は困った顔をする。判断できない。そう書かれた顔に、お前は医者だろうと言ってやりたくなった。「退院を急ぐ必要はありません」急ぐ。その言葉が隆盛の胸を刺した。確かに急いでいるのだろう。「急ぐ理由ができたんだ」もう遅いかもしれない。その言葉は胸にしまう。「小春に会いにいかなければならない」担当医の肩がびくりと震えた。「だ、だめです!」のらりくらりと躱していた担当医が大きな声を出した。隆盛は静かに彼を見る。「なぜ?」「なぜって」目が泳ぐ。「まだ安静にしていなければならないからです」「……そうか」隆盛は静かに呟いた。窓の外を見る。窓ガラスに、顔に安堵を浮かべる担当医が映っ
「俺がいてほしいと思った」樹の言葉が小春の胸の奥で何度も繰り返される。そんなふうに言われたことなど、一度もなかった。「……私なんかが?」思わず漏れた言葉だった。「私じゃなくても、樹さんなら話し相手くらい……」樹が軽く目を瞠る。「話し、相手?」「……違うのですか?」小春は首を傾げる。そんな小春を樹はまじまじと見たあと、笑った。「……え?」「そうか、話し相手か……ははっ、面白い」「……え?」樹は一息ついた。「そうだな。小春には俺の話し相手をしてもらおう」「あの……ですから、話し相手ならもっと……」「もっと?」「会社の方とか、ご友人とか……」「それはお前の代わりにはならない」小春は言葉を失う。「そもそも、比べる話じゃない」「……え?」「小春」樹は穏やかな口調で続ける。「小春、俺は世間では何と言われている?」「冷酷……です」「そんな俺に、気軽に話ができるような奴がいると思うか?」「でも……冷酷なんて、嘘だから……」「そうだな……でも、嘘で友人なんて簡単にいなくなるだろう?」樹の言葉に小春の身体が震えた。「そう、ですね」心当たりがあった。「でも……」「納得できないか」「……すみませ
夕方。樹を乗せた黒塗りの車が静かに屋敷へ滑り込んだ。「お帰りなさいませ」使用人たちが一斉に頭を下げる。「ああ」短く応じた樹は、そのまま屋敷へ入る。「小春は?」「お部屋にいらっしゃいます」橘が答えた。「今日は一日、お部屋でお過ごしでした」「体調は」「問題ございません。ただ……」橘は少しだけ言葉を選んだ。「少し気になることがございます」樹は歩みを止める。「何だ」「小春様がお仕事をお探しになろうとしています」樹の表情は変わらなかった。しかし、その場の空気だけがわずかに張り詰める。「お部屋で求人サイトをずっとご覧になっていたようです」「そうか」静かな返事だった。樹はしばらく黙っていた。「止めなかったのか」「止めることはできました」橘は正直に答える。「ですが、小春様にとって働くことは、ご自分の居場所を作ることなのだと感じたのでお止めしませんでした」「……なるほどな」樹は小さく息を吐く。朝比奈家で身についたことなのだろう。あの家では、小春は役に立たなければ存在を認められなかったに違いない。だから小春は、ここでも働かなければ捨てられると思い込んでいる。「樹様」橘が静かに尋ねる。「小春様に、お仕事をさせるおつもりはございますか」樹はすぐには答えなかった。「ある」やがて静かに口を開く。「だが、今すぐにではない」「それは、お体がまだ万全ではないからでしょうか」「それもある」樹は頷く。「一番の理由は違う」橘は黙って続きを待つ。「今の小春は、自分のために働こうとしていない」樹は窓の外へ目を向ける。「この家に迷惑を掛けたくない。ただ、そのためだけに仕事を探しているのだろう」「……確かに、そのように感じました」「そんな状態で働いてほしくない。小春には、小春のやりたい仕事をしてほしい」橘は首を傾げた。「樹様は、小春様のやりたいことが分かっておられるのですか?」「いや……想像はつく、といったところだな」樹は肩を竦めると、階段へ向かう。「先に小春と話をしてくる」橘はその背中を見送りながら、小さく微笑んだ。 ◇◇◇コンコン。静かなノックが部屋に響いた。「はい」小春が返事をすると、扉がゆっくりと開く。「樹さん」樹の姿を見た小春は慌てて立ち上がった。「お帰りなさいませ」「……ただ
樹は書斎へ戻ると、机の上へ皿を置いた。仄かに甘い香りがする。甘党の樹が傍らに菓子を置くことはよくある。でもこれは、高級ホテルの菓子でも、有名店の限定品でもない。小春が作ったクッキー。それだけで、その価値は樹の中でそれらを上回る。しばらく眺めたあと、一枚だけ手に取る。口へ運ぶと、優しい甘さがゆっくりと広がった。「……うん」飾り気のない味。でも、不思議と心が温かくなる。「社長」ノックとともに柳沢が入ってくる。「本日の資料です」「ああ」柳沢は書類を渡そうとして、ふとクッキーののった皿に目を留めた。「小春様がお作りになったものですね」「ああ」「野菜がたっぷり入っているそうですが」だから何だと言うように、樹はもう一枚口へ運ぶ。その穏やかな表情に、柳沢は思わず笑みを浮かべた。「昔を思い出した」そう言って、樹は静かに目を閉じる。脳裏に浮かぶのは病院の廊下。何もできずにいた自分。ただ泣いていただけの自分を引っ張ってくれた強い少女。その少女に与えられたのは。――お前という奴は!平手打ちだった。少女は父親に頬を打たれて、床に投げ出された。少女は三角巾で吊った左腕を押さえながら、痛みに呻いていた。そんな少女に父親は何も言わず、少女に背を向けた。そして傍にいた二人、頬に絆創膏を貼った少女と、その少女によく似た女性を連れて去っていった。起き上がった少女は泣いていなかった。笑っていた。――あの女性の命が助かったのよ。――人の役に立ったんだから。涙をこらえた、震える声でそう呟いていた。あの小さな背中。あの日の樹には見ていることしかできなかった。 『人の役に立った』ただ、その言葉を胸に刻み込むことしか。.「社長?」柳沢の声で現実へ戻る。「あの頃の俺は、何も持っていなかった」樹は静かに呟く。「力も、金も、人を守る立場も」「だから見ていることしかできなかった……ですか」「そうだ」事故のあと、樹の生活は一変した。そして決めた。力と、金と、彼女を守る立場を手に入れる。必死だった。わき目も振らずに、我武者羅に。気づけば十年経っていた。そして、その頃に小春が『悪女』だという理不尽な噂が広がっていることも知った。それでも樹は動かなかった。動けなかった。小春には婚約者がいたから。樹が動けば、小
「どの型で焼かれますか?」峰の言葉に、小春は箱の中を覗き込んだ。星。花。動物。ハート。思っていた以上にたくさんの型が並んでいる。「こんなに……」思わず感嘆の声が漏れた。「小春様がクッキーを焼かれると聞いて、使用人が百円ショップへ走ってくれたんです」「百円ショップ……」小春は目を丸くする。「こんなお屋敷の方も利用されるんですね」峰が笑う。「職場が豪華なだけで、私たちは普通の人間ですよ」そして少しだけ声を潜めた。「それに、樹様もよく利用されます」「え?」「整理整頓の便利グッズをネットで見つけると、『買ってきてくれ』と頼まれるんです」小春は思わず吹き出した。「樹さんが……?」「ええ」CEOという地位にあり、冷酷という噂の樹。そう恐れられている人が、百円ショップの商品を調べている。その光景を想像すると、何とも言えず微笑ましかった。「ふふっ……」自然と笑みが零れる。「可愛い……」その一言に、厨房のスタッフたちも思わず笑った。小春は照れながら箱へ手を伸ばす。たくさんある型の中から選んだのは、小さな鳥だった。「鳥、ですか?」料理長が尋ねる。「はい」小春は嬉しそうに頷いた。「お庭で見かけた鳥を思い出して」ボス。樹の幼い頃から代々受け継がれているという、あの少し勇ましい鳥。巣箱を守ろうと必死になっていた姿が頭に浮かぶ。「あとは……」「小春様、ハート型も可愛いです」使用人の言葉に、小春はハートの型も手に取った。「これは……」ハート型というのは照れ臭い。「これを四枚合わせると四つ葉のクローバーになります」「幸運の印」「いいことがありそうですね」彼らの言葉に、小春は考え直す。ハートなら恥ずかしいけれど、四葉のクローバーなら鳥とも合う。「それじゃあ、これも使います」「はい」ハートなのか。四つ葉なのか。それは見るほう次第なのだと、使用人たちはひっそりと笑った。.峰が均一に伸ばした生地を台へ置く。「どうぞ」小春は鳥の型をそっと押し当てた。ぽこん、と可愛らしい形が生まれる。その隣にもう一つ。さらにもう一つ。やがて鳥たちが並び始めた。その合間に、小さなハートも並べていく。「お上手です」「可愛いですね」厨房の空気が自然と和らいでいく。焼き上がる頃には、甘く香ばしい香りが